学習の森

安中市内指定文化財の詳細

安中中宿の燈籠人形・中宿糸操燈籠人形保存会

安中中宿の燈籠人形の画像
安中中宿の燈籠人形の画像

中宿地区に伝わるいと糸操燈籠人形(あやつりとうろうにんぎょう)は、明暦(めいれき)2・3年(1656・7)頃から始められたと伝えられ、諏訪(すわ)神社の例祭の際に行われていた農民芸能です。昭和4年を最後に途絶えていたものを昭和28年に復活しました。昭和40 年、ドイツのミュンヘン人形博物館に出品し、昭和43年には国立劇場に出演しました。昭和52年には国指定重要無形民俗文化財に指定されました。元々燈籠人形は竹や籐で骨組を作成し、それに和紙を貼り、中が透けるように菜種油と蝋を混ぜた絵の具で色つけをして、人形の腹の中に回転する豆カンテラを灯すものです。頭・手・足は型があり、これに和紙を水貼りして乾燥させて木枠をぬいて作ります。元々は夜間に演じられていました。人形を演じるときは舞台を設け、間口4間、奥行き四間半、前床の高さ5尺に作ります。前床を三尺、後床を二間板はりし、中央二間は土間とします。後床に前から転額、無双連額、巻き上げ幕、無双連額、遠見の順に五段に背景をしかけ糸で開閉させます。前床と後床の中間の土間に、前床と同じ高さの台を置き、框をのせてその上に人形をのせる。人形にはそれぞれ所定の黒絹糸を取り付け、舞台の天井に取り付けた框につり、そこから糸を土間におろして人形を見上げながら操ります。多いものでは十数本の糸が1つの人形につくので操る人数も数人必要になり、操作には熟練を要します。演目は俵小僧力自慢、馬乗り小僧の籠抜け、三番叟、安珍清姫があります。このち、馬乗り小僧と安珍清姫の人形は、ふるさと学習館2階に展示されています(ただし休館日には見ることができません)。

安中中宿の燈籠人形・中宿糸操燈籠人形保存会
(国指定重要無形民俗文化財)
安中市中宿145 (中宿公民館)

妙義山

妙義山の画像

妙義山は安中市・富岡市・下仁田町にまたがり、白雲山(1,081メートル)、金洞山(1,104メートル)、金鶏山(856メートル)の三山で象徴される表妙義と、谷急山(1,162メートル)、烏帽子岩(1,105メートル)、赤岩岳、丁須の頭、御獄山などの山々で構成される裏妙義とを総称しての呼び名です。妙義荒佐久高原国定公園の一部となっています。ただし、名勝指定範囲は妙義山の全体ではなく、安中市分は金洞山付近のおよそ40ヘクタールほどです。妙義山は700万年前に形成され、その後の浸食・風化により険しい斜面となり、多数の奇岩をみることができます。奇勝奇岩石門群が形づくる奇勝裏妙義山には中木川をせき止めて造られた妙義湖があり、その少し上流には「国民宿舎裏妙義」があります。

妙義山
国指定名勝
安中市松井田町五料・富岡市・下仁田町 

安中原市の杉並木

安中原市の杉並木の画像

江戸時代、街道には一里ごとに一理塚が築かれ、通行する人を風や日差しから守るために並木が植えられました。中山道の杉並木である安中原市の杉並木がいつ植樹(しょくじゅ)されたかには、3つの説があります。1つは慶長(けいちょう)9年(1604)説で、この頃各街道の改修が命じられました。次は元和(げんな)元年(1615)説で、高別当の人が杉の苗を植えているところに中山道を旅をしてきた人が大坂落城を知らせたということです。3つめは第6代安中藩主板倉重形(いたくらしげかた、藩主在位天和元(1681)年~貞享3(1686)年)が植えさせたという説で、これは第15代安中藩主板倉勝明が大坂勤番に赴く時の紀行である『西行紀行』の中に杉並木について「余(よ=私、ここでは勝明のこと)の祖先の倍樹するところなり。ー中略ー今に至る百年余」と書いてあるからてす。実際のところ、今まで落雷等で枯死したものを伐採したところ、杉の年数はさまざまであり、枯れたものがあった場合は地元の人が苗を植えたと推測されます。
なお、並木の杉の数は天保15年(1844)には732本、昭和7年(1932)には321本で、昭和8年に国指定天然記念物に指定されました。現在は十数本に減少しました。

安中原市の杉並木
(国指定天然記念物)
安中市原市字一里山(県道一本木平小井戸安中線沿い)

栄朝禅師木像

栄朝禅師木像の画像

栄朝禅師木像がある蓮華寺(れんげじ)は、宝治元年(1247)に栄朝禅師が開山しました。栄朝禅師木像は開山堂(かいざんどう)に祀(まつ)られていて、高さ108cm、座高70.6cmの寄木造(よせぎづく)りで、袈裟(けさ)をかけていますが、ひだがついており立体的に見えます。袈裟には金箔(きんぱく)や絵の具が残り、目には玉眼(ぎょくがん)をはめ込んでいます。鎌倉時代末期から室町時代ころの特徴をよく現している肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)です。

栄朝禅師木像
県指定重要文化財
安中市中宿甲789 蓮華寺

不動寺石塔婆

不動寺石塔婆の画像

不動寺仁王門前の参道西側に3基並んでいる異形板碑で、安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだものです。文字は南碑に「観応三年壬辰(1352)円観見性敬白」などがあり、北朝年号を刻んでいます。異形板碑として有名です。

石塔婆
県指定重要文化財
松井田町松井田甲987 不動寺

松井田八幡宮本殿

松井田八幡宮の画像

松井田八幡宮の本殿の建物は江戸の初期の建築で他の建物はその後に補われたものである。本殿は桃山風の形式をよく伝えている。八幡宮の本殿は三間社流造りで、屋根は外部からは幣殿と連なり、更に拝殿に続いている。一種の権現造りであり、神佛混淆を示す適例である。
建物の配置も佛教的であり、境内に八角円堂を有し拝殿は護摩殿と称されている。本殿と均衡のとれた大きさであるにもかかわらず、その前方に割拝殿を称する建物を備えている。また、本殿、拝殿の周辺に敷きつめられた敷石は、敷方に特別な技巧をこらしてあり、後方の石垣の取方とともにめずらしい特色を有して神聖さを倍している。

松井田八幡宮本殿
県指定重要文化財
松井田町新堀1497 松井田八幡宮

不動寺の仁王門

不動寺仁王門の画像

不動寺の仁王門は、間口6.05メートル、奥行3.5メートル、銅板葺、単層切妻造りの門で、蟇股欄間などに、よく桃山時代の作風を遺しているが、江戸時代初期に改築されたものと推定される。

不動寺の仁王門
県指定重要文化財
松井田町松井田甲987 不動寺

松岸寺の五輪塔

松岸寺の五輪塔

碓氷川の南岸にある松岸寺には、二基の五輪塔があります。完形の方は上から「空・風・火・水・地」の各輪を「団・半月・三角・円・方」で表し、地輪(ちりん)に「正応(しょうおう)六年四月一〇日」の銘(めい)があります。一番上の空輪(くうりん)を欠く方は地輪に「正応六年三月一二日」の銘があります。この五輪塔は佐々木盛綱夫婦(ささきもりつな)夫婦の墓(供養塔)といわれていますが、佐々木盛綱は源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の死後、磯部に隠棲していました。なお、正応6年は西暦1293年です。

松岸寺の五輪塔
(県指定重要文化財)
安中市磯部4−4−27 松岸寺

聞名寺の笈

聞名寺の笈の画像

この笈は、時宗(じしゅう)の創始者、一遍上人(いっぺんしょうにん、延応元(1239)年~正応2(1289)年)が諸国を廻っているとき、弘安(こうあん)3(1280)年、板鼻に笈をとどめ寺を建てたといわれています。これは一遍上人の十二光筥(こうきょ)の第七にあたるもので、現在日本に残存する三個のうちの一つです。高さ約39cm、幅39.5cm、奥行き27cmの大きさです。笈の側面には格狭間(こうざま)をくりぬいてあります。蓋を欠損していましたが、笈の保存修理の際に愛知県称名寺の十二光箱を参考にして作りました。また、聞名寺の寺伝によれば、一遍上人が板鼻の伊勢徳定の館に立ち寄り、時宗道場を開き、弟子の念称に布教にあたらせたのが聞名寺の始まりです。

聞名寺の笈
(県指定重要文化財)
安中市板鼻甲2101 聞名寺

短刀 銘綱家作 堀秀政帯

短刀銘綱家作堀秀政帯の画像

相州綱家(つないえ)作の刀には、天文(てんぶん)裏銘のものがあり、初代(しょだい)相州綱廣(つなひろ)の門下とも兄とも伝えられています。初代綱廣と同様に北条氏の刀匠(とうしょう)となり、小田原に移っています。この短刀の所持者である堀秀政(ほりひでまさ)は豊臣秀吉の宿将で近江国佐和山城を与えられ、のちに小牧・長久手の戦いや賤ヶ嶽の戦いで功を上げ、越前国北ノ庄を与えられました。天正18年(1590)、小田原攻めに参加し陣没しました。この短刀は長さ9寸9分で反りは一分弱です。

短刀 銘綱家作 堀秀政帯
県指定重要文化財
安中三丁目

木彫地蔵菩薩立像 1躯

木彫地蔵菩薩立像の画像

上後閑満行寺(まんぎょうじ)の開山は深秀上人(しんしゅうしょうにん)、開基は源義国、中興開基は後閑(新田)伊勢守信純です。源義国は源義家の子で、京の都から上野国に流罪にされたといわれており、義国の長男義重は新田氏の祖となり、次男義康は足利氏の祖となりました。後閑(新田)信純は義重の後裔で、富岡市の丹生城主でしたが、後に後閑城主となりました。満行寺は上後閑の榛名神社の別当寺(べっとうでら)で、本尊は木彫地蔵菩薩立像です。満行寺の地蔵菩薩立像は一木造りの立像で、藤原期(遣唐使の廃止から平家滅亡まで)の流れによって鎌倉期(鎌倉幕府成立~滅亡)に作られたものです。

木彫地蔵菩薩立像 1躯
県指定重要文化財
安中市上後閑1561 満行寺

満行寺木彫神像等 4躯

満行寺木彫神像等の画像

満行寺には本尊のほかに神像(しんぞう)3体、役行者像(えんのぎょうじゃぞう)1体、天部立像(てんぶりゅうぞう)3体が保存されています。いずれも一木造りであり、その手法から同一時期と目されます。指定されている神像は修験者風男神座像(総高66センチメートル)、修験者風女神座像(総高さ55センチメートル)、童形立像(総高47センチメートル)の3躯で、元々は漆塗りであったと見られています。また、天部立像の内、総高78センチメートルの完形のものが指定になっています。

満行寺木彫神像等 4躯
県指定重要文化財
安中市上後閑1561 満行寺

旧碓氷社本社事務所 1棟

旧碓氷社本社事務所の画像

明治11年(1878)に、萩原音吉・萩原専平(せんぺい)・萩原鐐太郎(りょうたろう)らは生糸の品質の安定と改良をはかるために、東上磯部村登城(ひがしかみいそべむらとじょう)に碓氷座繰精絲社(うすいざぐりせいししゃ)を設立しました。翌年加盟組合が増えたので、本社を原市に移転し、明治17年に碓氷社と改名しました。碓氷社の生糸は海外でも高い評価が得られ、明治13年のメルボルン万国博覧会や明治26年のシカゴ万国博覧会で表彰されました。明治38年に、桁行(けたゆき)10間(けん)、梁間(はりま)6間の木造瓦葺入母屋造(もくぞうかわらぶきいりもやづくり)二階建の事務所を新築しました。当初は東向きに建てられていましたが、平成3年に現在地に曳移転して保存されています。この事務所は養蚕農家の努力と碓氷社の繁栄を今日に伝えています。

旧碓氷社本社事務所1棟
県指定重要文化財
安中市原市二丁目10番16号 群馬土地株式会社
附 棟札(むなふだ) 1枚、来賓(らいひん)便所 1棟、碓氷社事務所建築縮図(じむしょけんちくしゅくず) 1枚

小野良佐栄重の墓

小野良佐栄重の墓の画像

小野栄重は、字(あざな)を良佐といい、宝暦13(1763)年に碓氷郡中野谷村の須藤家に生まれました。その後、親戚である板鼻宿の小野家の養子となりました。栄重は、少年時代から和算を好み、寛政元(1789)年、江戸の藤田貞資のもとで関流算学(せきりゅうさんがく)を修め、伊能忠敬(いのうただたか)のもとで測量・天文学を学び、海岸線の測量に参加しました。寛政9 (1797)年に故郷板鼻宿に帰り、和算塾を開き後進の指導にあたりました。享和3年、伊能忠敬の招きに応じて9ヶ月間海岸線の測量に参加し、文化6年(1806)にも、伊能忠敬の誘いで松井田宿で月食観測に参加しました。文化8(1808)年に恩師藤田貞資の遺命で関流数学師範の免許皆伝が伝達されました。天保2(1831)年に亡くなりました。

小野良佐栄重の墓
県指定史跡
安中市板鼻1915番地 南窓寺

五料の茶屋本陣 お西

五料の茶屋本陣 お西の画像

中山道の松井田宿と坂本宿の間の五料村と横川村に2箇所づつ茶屋本陣が設けられました。五料村では、字平に、山を背にして東西に中島両家のふたつのの大きな家構えが見えます。地元では「お西」、「お東」と呼ばれています。二軒で五料村の名主を勤め、天保7年からは1年交代で名主の仕事をしていました。「お西」の建物の中は大きく3つに分けられ、一番西側が茶屋本陣としての区画で、大名や公家などが利用しました。表の間、次の間、上段の間に分かれており、上段の間からは北側にある池や山を眺めることができます。また、明治11(1878)年9月には明治天皇北陸東海御行幸のとき、御小休所となったので、そのときに改修をしました。建物の中央は村の名主としての仕事を行う区画で、北側と東側が住居としての個人的な空間でした。2階はいろいろな資料を展示していますが、1階が茶屋本陣の空間には壁で仕切られていていけないようになっています。

五料の茶屋本陣 お西
県指定史跡
松井田町五料564ー1 五料の茶屋本陣

横川茶屋本陣

横川茶屋本陣の画像

中山道の松井田宿と坂本宿の間には五料村と横川村に茶屋本陣が二箇所設けられました。横川の茶屋本陣はその内の1つで、碓氷関所のすぐそばに設けられたのは、江戸側からきた大名などが服装をただすためと、碓氷関所を通過した大名などが服装を旅装に改めるためであると考えられています。また、武井家は古くから「矢の沢の家」と呼ばれ現在もその名で通っています。また、代々横川の名主役を勤め、幕末の頃は坂本駅の助郷総代も兼ねていました。

横川の茶屋本陣
県指定史跡
松井田町横川609

千駄木遺跡

千駄木遺跡の画像

西野牧の下平地区の西端、千駄木橋のたもとにあり、巨石が覆いかぶさっています。ここは以前から鹿の骨や角、土器片が出土していて、恩賀・下平の人々にはよく知られているところでした。昭和47年県道改修工事に伴う緊急発掘調査が行われました。その結果、縄文時代前期から弥生時代・古墳時代・歴史時代にわたって巨石の下を利用した岩陰遺跡であることが確認されました。出土品は土器片・石器類・古墳時代や歴史時代の土師器・須恵器などであった。特に縄文時代後期の土器は信州(長野県)、とりわけ八ヶ岳山麓地方の影響を受けたものが見られ、文化圏を考える上で貴重な資料となりました。これらの出土品は4000点以上にもなり、貴重な遺跡として保存の要望が高まり、道路改修工事の計画を一部変更して保存が決まり、続いて県指定史跡となりました。

千駄木遺跡
県指定史跡
松井田町西野牧16702ー1

五料の茶屋本陣 お東

五料の茶屋本陣 お東の画像

お東は西南を正面として、間口十三間半、奥行七間、総二階建、切妻造りで、お西とほぼ同じです。茶屋本陣が東西二軒隣合わせで並び建ち、しかも昔ながらの形態を維持していることは全国的にも珍しい事例です。お東は明治天皇の御小休所にならなかったので、江戸時代の様式を残しています。なお、お東は2階は公開していません。

五料の茶屋本陣 お東
県指定史跡
松井田町五料566 五料の茶屋本陣

細野の彼岸桜

細野の彼岸桜の画像
細野の彼岸桜の画像

細野の彼岸桜は樹高約19メートル、目通り4メートル、根元5.7メートル、枝張り約25メートル、樹齢500年余で樹勢旺盛です。
応永25年称光天皇の御代、看覚法印開山の新義真言宗宝性寺の奥の院の所有地に芽生えたものであるといわれています。その後、宝性寺は廃寺になってしまいましたが、桜の南下には武井氏の祖、新平という人が諸国行脚修行して、権大僧都の位を得て、この地を適地と定め、寛政9年百庚申を建てたので、この桜を庚申桜ともいいます。

細野の彼岸桜
県指定天然記念物
松井田町土塩300

中木のさざんか

中木のさざんかの画像

目通り1,56メートル、根回り2,24メートル枝張り東西13,4メートル、南北7,54メートル樹高5,45メートルで県内第一の巨木である。推定樹齢千年、樹勢はさかんで邸内の石垣上にあり、よく保護されている。
花期は十一月から三月までで花の観賞者も多く家屋とも調和し樹の容姿もよい。

中木のサザンカ
県指定天然記念物
松井田町五料甲2878

西広寺のツバキ

西広寺のツバキの画像

このツバキは関西の寺院にみられる「日光(じっこう)」種で、寺院の往来の際に移植されたと考えられます。「ケシツバキ」、「ユキツバキ」とも呼ばれています。樹齢は推定300年とみられ、高さ約6.5m、目通り1.2mです。花は真紅の一重唐子咲きで、花弁は5〜7枚です。ツバキの園芸品種のたどった系統の経路を研究するためにも貴重です。

西広寺のツバキ
県指定天然記念物
安中市安中3−21−25 西広寺

安中宿本陣古文書

江戸時代、街道の宿場の本陣は、大名・公家・幕府役人などが宿泊したところです。中山道安中宿の本陣を勤めてきたのは、須藤家で、また、安中宿の問屋も兼ねていました。安中宿本陣古文書は、この須藤家に保管されていた文書で、江戸時代〜明治時代初期までの交通関係の文書、大名休泊帳(だいみょうきゅうはくちょう)、安中宿本陣を初めとする関連の絵図などで、中山道の交通資料として欠くことできないものとなっています。

三角の橋供養塔

三角の橋供養塔

慶長(けいちょう)15年(1610)、東上秋間村の磯貝伊豆守(いそがいいずのかみ)が同志二十人とともに、秋間川支流の久保川に石橋をかけ供養したものです。橋供養塔では県内最古とされています。現在、石橋自体はありませんが、供養塔の北側の旧道が当時の本通りといわれているので、おおよその位置を推定することができます。

恵宝沢の道標

恵宝沢の道標

延宝(えんぽう)6年(1678)、西上秋間村般若沢(はんにゃざわ)の真砂吉久(まなごよしひさ)が榛名・妙義街道の道しるべとして建てたもので、実際は現在よりも少し西のところに東向きに立てっていました。県内最古の道標です。「南無阿弥陀仏」という文字の脇に「これよりきたはるなみち これよりみなみみょうぎみち」と彫られており、榛名・妙義街道の道標となっていました。

聖観音碑

聖観音碑

鷺宮(さぎのみや)字上平に所在する聖観音碑(しょうかんのんひ)は、扁平(へんぺい)な安山岩に自在・勢至・普賢の観音三尊を半肉彫りしてあります。年号や造立者は不明ですが、その建立は鎌倉時代末期以前と鑑定されています。高さ約
180センチメートル、碑の下部の幅66センチメートル、碑の中央の幅75センチメートルです。地元では「おびんづる様」とも呼ばれています。江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていましたが、馬に乗ったまま渡ろうとすると落馬するので、裏返して見たところ、観音三尊が彫られていることがわかったので、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれています。

北野寺所蔵文書

北野寺所蔵文書

徳川四天王の一人である井伊直政の次男直孝は、幼少の時に下後閑村の萩原図書という人物に預けられ、学問を北野寺の僧から学びました。成長して徳川家康の命で、彦根藩15万石の藩主となり、大坂夏の陣で戦功を上げたので、30万石に加増され、後に江戸幕府の大老を勤めました。このため、彦根藩井伊家からの新年の礼守賀状(れいしゅがじょう)、井伊直孝書簡、井伊直弼(なおすけ)賀状が残され、また、安中藩主内藤政森(ないとうまさもり)私信などが残されています。

熊野神社社殿

永禄(えいろく)2年(1559)、安中忠政(ただまさ)が安中城を築いたときに鬼門の守護神として熊野三社を勧請(かんじょう)したのがその始まりといわれています。江戸時代は城下の総鎮守(そうちんじゅ)として地域住民の崇敬(すうけい)を集めました。その社殿は拝殿と本殿を幣殿(へいでん)により連結した形式です。本殿は三間×二間の大きさで、その七面の板羽目(いたはめ)の彫刻は室町時代ふうで深雅(ふうが)です。

萩原家所蔵文書

萩原家所蔵文書

萩原鐐太郎(りょうたろう、天保14(1843)年~大正5(1916)年)は、江戸時代、東上磯部村の名主総代を勤め、明治時代以降は13ヶ村の肝煎名主を勤めたほか、碓氷郡役所書記、碓氷郡長、群馬県会議員、衆議院議員、碓氷社社長を歴任しました。萩原鐐太郎は、萩原家に伝わる江戸時代から明治時代にかけて村民生活関係の文書、養蚕や碓氷社に関する記録を整理して保管しました。萩原家所蔵文書はこうした文書など4000点近くが整理されて保管されています。

天竈朝陽・古賀錦山の碑

天竈朝陽・古賀錦山の碑の画像

 これらの碑は元々は別の場所にありましたが、国道18号松井田バイパスの建設の際に現在の場所に移されました。

天竈朝陽(本名:松本安二郎)
若くして大阪の中井竹山に経書を、ついで京都の吉益南涯から医法を学びました。帰郷してからは医術をもって松井田宿のために献身し、盛名をはせました。天保6(1835)年6月24日61歳で亡くなりました。天保9(1838)年11月、門人たちにより碑が建てられました。

古賀錦山
九州久留米の人で若くして江戸で医師村井先生に医術を学び、帰省途中に松井田宿で患者を診察しました。このため、宿民から求められこの地に住みつくことになりました。好人物で人々から信望・信頼がありました。慶応2(1866)年6月1日に亡くなり、「天竈朝陽翁のそばに葬って欲しい」との遺言により、そのそばに葬られました。慶応3(1867)年3月碑が建てられました。

天竈朝陽・錦山古賀の碑
市指定重要文化財
松井田町新堀1335 国道18号松井田バイパス北側

芭蕉句碑

芭蕉句碑の画像

“ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ”

元は寛政2(1790)年に刎石山中腹の「覗き」に建立されましたが、中山道が廃道となったために現在地に移転されました。坂本宿の俳人連グループ「竹睡庵連」の建立によるもので、選句、筆者は初代春秋庵白雄です。この句碑は当時の宿駅文化の盛況さを偲ぶ良き資料の一つです。

芭蕉句碑
市指定重要文化財
松井田町坂本乙930

正斎雲霧集・三川雲霧集

正斎雲霧集・三川雲霧集

「正斎」(せいさい)は近藤重蔵(こんどうじゅうぞ:本名守重(もりしげ))の号で、江戸時代後期の千島列島(ちしまれっとう)方面の探索を行い、択捉島まで行きました。「三川」(さんせん)は安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)の側近の山田三郎の号です。山田三郎は松前藩(まつまえはん)に仕えていたことがあり、近藤重蔵と親交がありました。正斎・三川雲霧集(うんむしゅう)は自分宛(あて)の手紙を集めたものです。

内藤山城守政森真筆「臣軌」上下2巻

内藤山城守政森真筆「臣軌」上下2巻

「臣軌(しんき)」は、人民と家臣の手本を示したもので、中国の則天武后(そくてんぶこう)の撰(せん)です。安中にある「臣軌」は安中藩主(あんなかはんしゅ)内藤政森(ないとうまさもり)が書いたものです。内藤政森は元禄15(1702)年に陸奥国泉(現在の福島県いわき市)から板倉重同と入れ替わって安中藩主となり2万石を治めました。政森の次は政里(まささと)がつぎ、政里の子の政苗(まさみつ)の時、寛延2(1749)年に三河国挙母(現在の愛知県豊田市)へ転封となりました。

称名寺の鐘

この梵鐘(ぼんしょう)は、元は称名寺の境内寺院(けいだいじいん)の泉徳寺(せんとくじ)の鐘でしたが、明治時代初期に泉徳寺が廃寺(はいじ)となったので、称名寺に帰属しました。郷土鋳物師(いものし)金井兵部重久(かないひょうぶしげひさ)が宝永(ほうえい)5年(1708)に鋳造(ちゅうぞう)したものです。

桂昌寺の鐘

この鐘(かね)は2代安中藩主(あんなかはんしゅ)井伊直好(いいなおよし)の奥方(おくがた)長生院(ちょうせいいん)の菩提(ぼだい)をともらうために、寛文(かんぶん)3年(1663)に鋳造(ちゅうぞう)したものですが、鐘の音の響きが悪くなったので、嘉永(かえい)3年(1850)に高崎の鋳物師小林弥兵衛によって鋳(い)直したものです。

甘雨亭叢書の原版及び其の他の原版

甘雨亭叢書の原版及び其の他の原版

甘雨亭叢書は、15代安中藩主(あんなかはんしゅ)板倉勝明(いたくらかつあきら、文化6(1809)年11月10日~安政4(1857)年4月10日)が、江戸時代の学者・思想家の論文で、まだ刊行されていないものを集めたものです。叢書は全部で54集が刊行されました。この叢書および板倉勝明自身の出版物などの版木1166枚が保管され、市指定重要文化財に指定されています。ちなみに、「甘雨」は板倉勝明の号で、「甘雨亭」は勝明の書斎という意味です。

安中様の大太鼓

安中様の大太鼓

安中様のお太鼓は第6代安中藩主板倉重形(藩主在位天和元(1681)年~貞享3(1686)年)の時(天和元年)に作られたといわれており、安中城の大手門の東にあった太鼓櫓(やぐら)にすえつけられて時を告げていたもので、その音は熊谷まで聞こえたと云われています。明治4年に安中城が廃城となった後には安中小学校の玄関につるされて、ベルの代わりとして使われました。ながらく復活した安政遠足侍マラソンのスタートを告げる太鼓として使われてきましたが、現在は、ふるさと学習館の1階に展示されています。

山岡鉄舟揮亳の額

山岡鉄舟揮亳の額

明治16(1883)年に安中小学校の新校舎が建設されたときに、政治家・剣術家・書家として活躍した山岡鉄舟に揮毫(きごう)してもらったものです。「公立安中黌」と書かれています。山岡鉄舟は、江戸幕府の役人で、勝海舟の使者として西郷隆盛のもとにおもむき、新政府軍の江戸城総攻撃を防ぎました。明治時代以降は明治政府に仕え、宮内少輔、元老院議官を勤めました。剣術家、書家としても有名です。なお、山岡鉄舟がこの書を残した経緯は不明です。

安中小学校事務日誌二十二冊

安中小学校事務日誌二十二冊

安中小学校は明治6(1873)年に開校しましたが、明治6年から明治31年までの事務日誌22冊を一括して市指定重要文化財に指定して保存をはかったものです。事務日誌の名称は「日暦」、「学校日記」、「日誌」、「小学校日誌」、「事務日誌」とさまざまであり、また、安中小学校の名称も「安中小学校」、「碓氷第一尋常小学校」、「安中尋常小学校」などと変化しています。なお、安中小学校が現在の場所に移ってきたのは明治41年のことで、それまでは500mほど西側の場所にありました。

真光寺の鐘

原市の仁井与惣衛門が真光寺に寄附した梵鐘を、安中藩主板倉勝暁から「時の鐘」として打ち鳴らす許可がおりた機会に鋳直し、天明元年(1781)に撞き始めを行いました。

地蔵菩薩像

この像は原市の八本木にある地蔵堂に祀られていています。像は木造寄木造りで、岩座の上に趺座し、右手に錫杖をもち、左手は膝上で手のひらに宝珠を持っています。延命地蔵菩薩通形の形です。榎下城主安中忠清が勧請したといわれています。

磯貝雲峰の碑

磯貝雲峰の碑

磯貝雲峰は九十九村下増田の内田仁太郎、ムラの三男として慶応元(1865)年 に生まれ、名は由太郎といいました。14歳の時に 母親の実家である郷原の磯貝家の養子となりました。幼少より勉学に志し、細野東小学校の校長だった柏木義圓のすすめで明治18年に同志社英学校に学び、徳富蘆花(徳富蘇峰の弟)らと親交を深めました。明治22年に同志社英学校を卒業後、名古屋の金城女学校の校長などを勤め、明治28年に渡米し、英米文学研究に取り組みましたが、結核に感染して帰国して治療に専念しましたが、明治30(1897)「年、32歳で亡くなりました。郷原自性寺に墓があります。なお、雲峰は徳富蘆花が同志社英学校に通っていた時のことを書いた小説「黒い眼と茶色の目」の中に「片貝芳太郎」として登場します。
実家のある下増田に建てられた雲峰の碑は、古く松井田城の銘石「亀石」の表に徳富蘇峰の撰文になる「君資性温厚、人と争はず、物を競はず・・・以下省略」の碑文と、裏面には、彼の代表作である
「早蕨を折りし昔よ偲ばれて恋しくなりぬふるさとの山」という詩文が刻まれています。

郷原の妙義道常夜燈

この常夜燈は、文化5年(1808)に、郷原の人たちが結成した「妙義講」の信仰の証として建てたものです。現在は国道18号線の南側にありますが、元は北東50mほどのところにあり、中山道から妙義神社へ通じる「妙義道」の入り口にありました。
この常夜燈は台座を含めて5mほどあり、露盤の四面と笠の正面には十六弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれていて、この紋章は妙義神社の紋章と同じです。

郷原自性寺の宝篋印塔

中山道の北側にある自性寺には2基の宝篋印塔があり、応永3年(1396)のものは総高95cm、嘉吉3年(1443)のものは総高93cmです。いずれも相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔です。材質は多孔質安山岩を使用しています。

刀剣 銘 上毛郷原住 憙照作之

憙照(よしてる)は碓氷郡郷原村に住んだ刀工(とうこう)で、儘田(ままだ)常八と称しました。高崎藩の刀工長谷部義重(はせべよししげ)(文政8年〜安政6年、墓は高崎市光明寺)の門下(もんか)といわれています。憙照は天保13(1842)年に生まれ、大正12年に亡くなり、墓は海雲寺(かいうんじ)にあります。この刀の裏には「明治三年八月日」の銘(めい)があり、長さは2尺6分(62.8センチメートル)、反り1.1センチメートルです。長らく作品が見つからず幻の刀工といわれていましたが、ようやく作品が見つかり、貴重な郷土刀です。

碓氷社万国博覧会英文表彰状

碓氷社は明治11年に創立された組合製糸で、当初は座繰で糸を取っていました。生糸の品質が均一・良質になるように努力した結果、碓氷社が明治13年にオーストラリアのメルボルン万国博覧会で第2位、明治26年にアメリカ合衆国のシカゴ万国博覧会で受賞し、その表彰状が市指定重要文化財に指定されています。

小野直文書

小野直(おのちょく)氏は、天保(てんぽう)4年(18 33)に安中藩士小林友七の六男に生まれ、最初、小林富三郎といい、嘉永(かえい)4年(1851)に小野家の養子となり、小野富三郎となりました。安中藩では御用部屋書役、御作事添奉行を歴任し、明治維新後は名を富三郎から直と改め、群馬県第11大区副(だいくふく)戸長、碓氷郡役所書記を勤めました。この小野直氏が残した文書は、安中藩政記録や明治初期の士族生活、碓氷郡役所関係文書、安中城や安中藩江戸上屋敷・中屋敷、碓氷関所などの図面などがあり、幕末から明治時代前半までの貴重な史料です。

郷原村の検地竿と水帳・免定

今井家は代々郷原村の名主(なぬし)を勤めた家で、ここに寛文(かんぶん)4年(1663)の検地(けんち)で使われた検地竿(けんちざお)が残されています。寛文検地は安中藩主水野備後守元綱(みずのびんごのかみもとつな)が寛文3年〜寛文4年に領内すべての村で実施したものです。また、寛文4年の郷原村一ヶ村の水帳(みずちょう)(検地帳)が全冊保存されています。さらに免定は寛永(かんえい)9年(1632)からはじまって149状が残されており、安中藩の農政の歴史を調べる上で貴重です。

八塔石紅地蔵

八塔石紅地蔵の画像

八塔石紅地蔵の画像

八城吉祥寺境内にあり、元禄12(1699)年、小幡藩の税が高いことを江戸幕府に訴えて、死罪は免れたが村を追放された14ヶ村代表8名の恩を忘れないために建立されました。

八塔石紅地蔵
安中市指定重要文化財
安中市松井田町八城168 吉祥寺

古城遺跡(後期旧石器時代)

古城遺跡(後期旧石器時代)の画像
古城遺跡(後期旧石器時代)の画像

板鼻の古城住宅団地建設に伴う発掘調査で確認されました。後期旧石器時代初めの頃(約3万年前)の狩猟キャンプの跡で、安中市内ではもっとも古い人類の遺跡です。現在の地表から約 4mも下のローム層中から発見されたもので、鹿児島湾の大噴火で飛んできた火山灰層(姶良火山灰)の下から黒曜石や黒色安山岩などで作られた石器がたくさん発見されました。この中には狩猟に使ったナイフ形石器や局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)などが含まれています。

古城遺跡出土旧石器
市指定重要文化財
現在はふるさと学習館2階常設展示室に展示

咲前神社太々神楽・鷺宮太々神楽保存会

咲前神社太々神楽の画像

咲前神社太々神楽は、咲前神社の春祭りに奉納(ほうのう)された神楽で、神楽殿の額から文化12年(1815)よりも前に始まったと考えられます。伝承では高崎市石原町の小祝神社から伝えられたといわれています。神楽の構成は笛吹3名、太鼓打1名、鉦鼓1名、舞者7名です。舞者は各種装束を着て、面をかぶり、採物を持って舞います。舞は12座あり、順番に猿田彦大神(四方祓の舞)、伊佐那岐伊佐那美命(国造りの舞)、鹿島大神香取大神細女命(大神慰の舞)、大刀雄大神(天の岩戸)、誉田別大神(弓引の舞)、稲倉大神(苗代種子蒔の舞)、天津摩良大神(刀鍛冶の舞)、両刀天狐(ヒョットコ餅投の舞)、
松尾大神(神酒造りの舞)、素佐之男大神(大蛇退治の舞)、事代主命(鯛釣りの舞)です。現在は咲前神社太々神楽保存会により毎年4月1日に神楽殿で奉納されています。

咲前神社太々神楽・鷺宮太々神楽保存会
市指定重要無形文化財
鷺宮3308 咲前神社

八城人形浄瑠璃

八城人形浄瑠璃の画像

八城人形浄瑠璃城若座による3人遣いの人形浄瑠璃で、元禄12(1699)年に建立された八塔石紅地蔵の供養のために始められたといわれています。義太夫節と三味線に合わせて演じられます。明治18年に地元に城若座が設立され、現在は毎年10月に八城西住民センターで定期公演を行っているほか、安中市内の小学校で伝統芸能教室を実施しています。

八城の人形浄瑠璃(附 頭50体)
市指定重要無形文化財
松井田町八城 八城西住民センター

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑の画像

仙石因幡守久俊は四千石の旗本で、東上磯部村〜下磯部村に領地を有していました。柳瀬川(やなぎせがわ)の水だけでは水田に引く水が充分でないので、碓氷川から用水を引こうとしましたが、西隣の領主に交渉したがまとまりませんでした。そこで幕府に願い出て領地をよそへ移し、久俊の磯部の旧領を天領(てんりょう)にしてもらって、幕府が主体となって寛文13年(1673)、人見堰(ひとみぜき)は完成しました。磯部の領民は久俊を稲葉大権現(いなばだいごんげん)として生祠(せいし)にして祀(まつ)り感謝しました。その後、嘉永5年に亀田鵬斉の子亀田綾瀬の撰文で頌徳碑が建てられました。

仙石因幡守の石祠及び頌徳碑
安中市指定史跡
安中市一丁目14番

簗瀬八幡平の首塚

簗瀬八幡平の首塚の画像

 簗瀬八幡平の首塚は、元々6世紀後半の横穴式石室を主体部とする円墳でしたが、昭和27年の東京退学人類学教室の鈴木尚教授の発掘調査により、古墳の石室の外側に穴を掘り、人骨(ほとんど上顎以上の頭骨)を埋めたことがわかりました。頭骨は150体分以上あり、性別の判明する38体の内訳は、男27、女7、幼い子ども4であることがわかりました。骨は天明3年(1783)の火山灰層の下にあり、頭骨の特徴から中世(鎌倉時代~室町時代)の骨であることがわかりました。
 また、平成9年の発掘調査で、古墳の南面に板碑(いたび)7基が確認され、その内の1つに「建武4年」(1337)の銘があり、そのころに建立されたと考えられます。

簗瀬八幡平の首塚
安中市指定史跡
安中市簗瀬753

野殿天王塚古墳

この古墳は、岩野谷丘陵の北東縁に位置し、規模は現在は直径約15m、高さ約5.5mの円墳ですが、元は直径20mくらいであったと推測されます。主体部は、自然石の両袖型横穴式石室(りょうそでがたよこあなしきせきしつ)で、南に開口しています。石室の全長は11.18mあり、玄室の奥壁が古墳の中心に来るようになっています。石室の構造から高崎市八幡町の観音塚古墳(6世紀末~7世紀初頭)の影響が見られ、6世紀末葉~7世紀初頭の築造と考えられます。

元助遺跡義士石像・義士供養塔

元助遺跡義士石像・義士供養塔の画像

赤穂義士(あこうぎし)のひとり片岡源五右衛門高房(かたおかごえもんたかふさ)の忠僕元助(ちゅぼくもとすけ)は、下秋間村の生まれで、四十七義士とその主人浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)夫妻の冥福(めいふく)を祈り建立しました。元助は東上秋間村久保の観音堂に仮住まいして寄付を集め、岩戸山の岩棚の下に二十数年かけて石像を完成させ、その後、久保に供養塔を建てました。

元助遺跡義士石像・義士供養塔
市指定史跡
義士石像:東上秋間3197 岩戸山中腹
義士供養塔:東上秋間甲2041 久保観音堂

荒木寅三郎の墓

荒木寅三郎は、慶応(けいおう)2年(1866)、板鼻で生まれ、明治20年に東京大学医学部を卒業し、ドイツに留学(りゅうがく)し学位を授けられて帰国しました。帰国後、京都帝国大学医学部教授、京都帝国大学学長などを歴任し、その後、学習院院長を勤め、枢密院(すうみついん)顧問官に任命されました。

後閑城址

信濃国(現在の長野県)佐久郡の依田忠政(よだただまさ)が、嘉吉(かきつ)元年(1441)に築城(ちくじょう)したと伝えられ、その子政知、孫光慶(みつよし)が居城しました。依田光慶が板鼻に移ったのち、北条政村が居城としましたが、永禄(えいろく)10年(1567)に武田信玄が後閑(新田)信純(のぶずみ)に後閑の地を与えました。武田氏滅亡後、信純の子重政・信久は後北条氏に属しましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、後閑城は廃城(はいじょう)となりました。

太山融斉の墓

太山融斉(おおやまゆさい、寛政6(1794)年~文久3(1863)年)は、常陸国信太郡(現在の茨城県稲敷郡美浦村)出身で、江戸浅草田原町で町儒者をしていたところ、天保9年、安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)に招聘されて安中藩に迎えられ、安中藩儒として藩校造士館の教授を勤めました。また、嘉永5年には、地球儀を5個製作したといわれ、そのうちの2個が現存し、市指定重要文化財に指定されました。また、書にも優れ、谷津の庚申塔や神社の幟旗が残されています。

山田三川の墓

山田三川(やまださんせん、文化元(1804)年~文久2(1862)年)は通称を三郎といい、伊勢国三重郡平尾村に生まれました。江戸の昌平坂学問所に学び、舎長にまでなりました。松前藩(まつまえはん)に仕えたが、突然暇を出され、下総国(しもうさのくに)水海道(みつかいどう)に隠棲(いんせい)しました。水戸藩の徳川斉昭(なりあき)が召しかかえようとしましたが、三川が辞退したので、斉昭は親交のあった安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)に紹介し、嘉永5年に安中藩に迎えられました。三川は藩儒として安中藩校の造士館(ぞうしかん)の教授を勤めるとともに、養育奉行、代官、郡奉行などの藩の役人としても活躍しました。

漆園の記碑

漆園の記碑の画像

安政2年(1855)に第15代安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)が安中藩内に漆で産業を興すために領内の空き地に漆苗(うるしなえ)百万本を植えさせ、利益があがったらその利益を4分して、4分の1を土地の所有者に払い、4分の1を漆植樹の費用にあて、4分の1を藩の収入にし、4分の1を貧民(ひんみん)の救済(きゅうさい)に当てることを石に刻んで、後世の農を司る者(藩主や藩の役人)がこれを破らないように残したものです。この碑の撰文は山田三郎(号三川)が行い、安政3年に安中城本丸内に建てられました。現在は、新島襄旧宅北側の古墳の上にあります。また、残念ながら、板倉勝明が安政4年に
亡くなり、安中には漆産業は興りませんでしたが、板倉勝明がいかに藩政の立て直しや貧民救済に心を配っていたかを今日に伝えています。

漆園の記碑
市指定史跡
安中一丁目7ー30 安中6号墳墳丘上

石川忠房の生祠之碑及び生祠

石川忠房の生祠之碑及び生祠

石川忠房(いしかわただふさ、宝暦5(1755)年~天保7(1836)年)は江戸幕府の旗本で、江戸幕府の役人として目付、作事奉行、勘定奉行、道中奉行などを歴任しました。文政2年から文政11年まで忠房は勘定奉行と道中奉行を兼務した。これより先、安中宿は耕作する土地が付属していないために中山道の宿場がそろえる規定の半分の人足25人、馬25疋ですませてきたが、天明3(1783)年の浅間焼けの復旧費用として中山道の他の宿場と同じ助成金をもらったために人足50人、馬50疋を勤めなければならなくなり安中藩から助成も受けたが困窮してしまった。このため、文政5(1822)年に安中宿が道中奉行石川忠房に窮乏を訴えたので、文政5年(1822)から25年間、定助郷(じょうすけごう)19ヶ村の外に24ヶ村を増助郷(ぞうすけごう)として追加しました。安中宿民は牛頭天王社(現在の群馬銀行安中支店敷地)に生祠を建て忠房を生き神として祀りました。その後、天保5年(1834)に安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)が安中城本丸に生祠之碑を建立(こんりゅう)しました。現在は生祠も生祠之碑も伝馬町公民館北にある三社神社の敷地に祀られています。

井伊直政正室の墓・直好生母の墓

徳川家康の四天王の一人である井伊直政の正室は、松平周防守康親(すおうのかみやすちか)の娘で、直政の死後、出家し東梅院(とうばいいん、後に唐梅院)と称したが、初代安中藩主井伊直勝の生母です。井伊直勝は初め直継といい、父直政の死後、彦根城を築城したが、徳川家康の命により、慶長19(1614)年に彦根を異母弟の直孝に譲り、碓氷郡関長原の関と吾妻川の杢ヶ橋関所の警護のために安中に下り、安中の地に屋形を造り、中山道沿いの町割りを行いました。元和9(1623)年には上横川に関所を移しました。直勝の子直好(なおよし)(初め直之(なおゆき))の母は直勝の側室で、隆崇院(りゅうそういん)と諡(おくりな)されました。唐梅院と隆崇院の墓は大泉寺(だいせんじ)にあります。

寒念仏橋供養塔

享和(きょうわ)2年(1802)、板鼻宿の木嶋七郎佐衛門(きじましちろうざえもん)が、中山道を横切る小川に石橋をかけましたが、旅の安全を祈って建てた供養塔(くようとう)です。なお、「寒念仏橋」という名の由来は寒中に念仏を唱えて回って得た浄財を橋を架ける費用に充てたことによります。

便覧舎跡

上野尻(かみのじり)の醸造業(じょうぞうぎょう)を営む湯浅治郎(ゆあさじろう)が、明治5年(1872)に日本で最初の私設図書館、便覧舎を設立し、和漢の古書や新刊書を収集し、無料で自由に閲覧(えつらん)させました。

館の百体馬頭観世音

若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)の南側に、平面的に北に中尊(ちゅうそん)を建て南北に長い楕円形に102体の馬頭観世音(ばとうかんぜおん)を並べています。中尊(ちゅうそん)の銘から文政9年(1826)に建立されたと考えられます。

柏木義円の墓

柏木義圓は、新潟県三島郡与板(よいた)の西光寺(さいこうじ)に生まれましたが、東京師範学校を卒業し、碓氷郡(うすいぐん)細野(ほその)西小学校の校長となりました。そこで新島襄を知り、同志社英学校に学び、卒業後は同志社英学校に勤めていたが、明治30年(1897)に安中教会の第5代牧師に迎えられました。翌年から「上毛教界月報(じょうもうきょうかいげっぽう)」を発行し、キリスト教界の動向だけではなく、日清・日露戦争などの日本の朝鮮半島や中国大陸への侵略や国家主義教育に反論し、また、戦争は最大の罪悪として非戦を唱えました。そのため、上毛教界月報は昭和11年に459号で廃刊となるまでに、幾多の発禁処分や罰金を受けました。また、牧師在任中の大正8(1919)年に湯浅治郎らと協力して新島襄召天30年を記念して新島襄記念会堂を新築しました。なお、安中教会の信徒により昭和10年に義圓の書斎として建てられた建物が「義圓亭」として残されています。柏木義圓は昭和13年になくなり、夫人とともに西広寺に葬られました。

後閑3号墳

九十九川(つくもがわ)の右岸の沖積低地(ちゅうせきていち)に築かれた円墳(えんぷん)で、規模は基壇(きだん)部で直径20m、盛土部が直径12.6mです。主体部は平面T字型の自然石乱石(しぜんせきらんせき)積みの横穴式石室(よこあなしきせきしつ)です。また羨道(えんどう)の奥から玄室(げんしつ:死者を葬るところ)にはベンガラが塗られています。こうした特徴からこの古墳は、簗瀬二子塚古墳が造られたのと同じ頃(6世紀の初め頃)に造られたと考えられ、古墳の主は簗瀬二子塚古墳の主の配下の中間支配者層であると考えられます。

後閑3号墳
安中市指定史跡
安中市下後閑字山王前

万福原古墳(秋間12号墳)

秋間丘陵にあり、丘陵の頂上部付近に位置します。7世紀後半に造られたものです。直径約12m、高さ3mの円墳です。主体部は溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん:秋間石)の截石切組積横穴式石室(きりいしきりくみづみよこあなしきせきしつ)です。截石切組積横穴式石室は市内では秋間川流域に4基しかみられず、群馬県でも二十数基しかないもので、進歩的な豪族(あるいは役人)の墓と考えられます。

簗瀬二子塚古墳

簗瀬二子塚古墳

◆概要
 簗瀬二子塚古墳は、安中市域に初めて登場した大型前方後円墳で、古墳時代後期初頭(6世紀初頭)に築造されたと考えられています。この地域一帯を支配した有力者の墓と推測されます。
 また古墳の埋葬部分は横穴式の石室が作られています。この横穴式石室は、上野地域さらには東国において、石室が竪穴式から横穴式へと移る最初の頃のものと考えられ、学術的にもとても重要な古墳です。
◆規模
 2段築造の前方後円墳で全長約80m、後円部径約50m・高さ約8m、前方部幅約60m・高さ7m、上野地域の古墳時代後期初頭(6世紀初頭)最大級の古墳です。

石室

◆古墳の整備
 本墳は墳丘の残りがとても良かったため、古墳の保護を目的とした整備を行いました。墳丘の形状を変えることなく、古墳全体に盛り土を行う方法を用いています。
◆石室
 全長11.54m羨道長7.47m(幅0.67m~0.95m)、玄室長4.07m(幅2.16m~2.32m)高さ2.20m。天井石には秋間石(溶訣凝灰岩)が使用され、近くの碓氷川の川原石を使用している壁石には赤色顔料(ベンガラ)が塗彩されています。
◆出土遺物
・埴輪:円筒埴輪・形象埴輪(人物や馬など)が出土、墳丘第1段平坦面には埴輪列が確認されています。
・副葬品:玉類(金箔ガラスの3連子玉、勾玉、水晶製丸玉など)、装身具(金銅製耳環など)、石製模造品(鎌・刀子・斧・臼玉など)、武器類(鉄鏃・直刀・鉄小札)、馬具(杏葉・辻・金具など)、須恵器などが出土しました。

大欅

大欅

熊野神社の境内にありますが、この地が野後郷(のじりごう)と呼ばれていたころからの老木で、樹齢は1000年を超えるといわれています。落雷により被害を受けて、木が傾いたため、鉄の柱により支えています。安中藩主板倉勝明が編纂した安中地域の郷土地理誌「安中志」によれば、「大榎 社地にあり中うろにして近郷には珍しき大木なり。」と書かれています。榎も欅もどちらもニレ科の落葉高木で、当時は明確に区別されていなかったようです。

安中小学校の大いちょう

安中小学校の大いちょう

安中小学校が明治41年(1908)に現在の所に校舎を新築したときに、旧校舎のあったところから移植したものであるといわれています。移植のときにはすでに奈良の大仏くらいの大きさ(約16m)だったといわれ、現在は高さ24mです。一本の木に見えますが、実は7本の寄せ植えです。

行田の彼岸桜

行田の彼岸桜の画像

樹齢約400年、妙義道の傍にあり、根元に山の神を祀る。目通り約6メートル、樹高10メートル、幹は空洞化しているが、樹勢は極めてよく遠近から花見客も多い。古くから妙義道の「山の神の彼岸桜」として有名であり、樹下に辻堂があり参詣客も多かったといわれ「横野の原」の花の象徴であったと言われている。

行田の彼岸桜
市指定天然記念物
松井田町行田987ー3

磯部神明宮のヒイラギ

磯部神明宮のヒイラギ

このヒイラギはここにあった神明宮の御神木であるといわれており、樹齢は約250年であるといわれています。高さ11.5m、目通り2.1mの大きさで、県下でも稀にみる老巨木です。

木馬瀬の福寿草自生地

木馬瀬の福寿草自生地

上増田木馬瀬(ちませ)を流れる増田川の左岸の河岸段丘上に福寿草の群落があり、そうとう古い時代からあるものと考えられます。幕末、勘定奉行であった小栗上野介が、領国の権田へ引き上げる途中、ここに幕府再興の軍資金を埋め、金額の小判が山の日の目を見えないことを嘆いて黄金色の福寿草となって地上に出てくるのだという言い伝えがあります。福寿草の見ごろは2月中旬から3月上旬です。

木馬瀬の福寿草自生地
市指定天然記念物
松井田町上増田2051ー3

安中市 学習の森 ふるさと学習館内 文化財保護課文化財活用係

〒379-0123 群馬県安中市上間仁田951番地
電話027-382-7622 Fax:027-382-7623
Eメールfurusato@des.city.annaka.gunma.jp